釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺

原文 書き下し文
釈迦如来楞伽山 (釈迦如来楞伽山にして)
為衆告命南天竺 (衆の為に告命したまわく、
         南天竺に)

目次

  1. お釈迦さまの予言
  2. 八宗の祖師・小釈迦
  3. 最初からそんなに偉大な方だった?
  4. 龍樹菩薩の教えられたこと
  5. 死んだら無になる?
  6. 永遠不変の魂があるの?

お釈迦さまの予言

ここからの
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
」は
釈迦如来楞伽山において、
 衆の為に告命したまわく、
『南天竺に龍樹大士、世に出でて、
 悉く能く有無の見を摧破し』

と読みます。

釈迦如来」とは仏教を説かれたお釈迦さまのことです。
楞伽山にして」とは、楞伽山(りょうがせん)において、ということです。
お釈迦さまが生きておられた時、インドの楞伽山という山で、説法をしておられた事がありました。
この時の説法を『楞伽経』と言います。

その時、沢山の人が参詣せられていました。
それが、次に「」と言われています。

衆の為に」とは、その参詣者に対して、ということです。
告命したまわく」とは、告げられた、予言せられたということです。

その内容が、
南天竺に龍樹大士、世に出でて、
 悉く能く有無の見を摧破し

ということです。

南天竺に」とは、
天竺」とは、インドのことですから、
南インドに」ということです。

私がこの世を去った後、700年後に南インドに龍樹という勝れた人が現れるだろう

この時すでに、700年後とおっしゃっています。
お釈迦さまは、南インドに、龍樹菩薩というすぐれた人が現れると予言せられました。

そして、事実、予言通りに、龍樹菩薩という人が現れておられます。

では、龍樹菩薩はどんな方だったのでしょうか。

八宗の祖師・小釈迦

親鸞聖人が、七高僧の最初にあげられる
龍樹菩薩は、ただすぐれた人とあがめられただけではありません。
八宗の祖師」といわれています。

八宗」とは、仏教には色々の宗派があります。
色々の宗派があれば、その一つ一つに、その宗派を開いた「祖師」があるはずです。

ところが、仏教にたくさんの宗派はあるけれども、すべての宗派の祖師と言われるほどの方が龍樹菩薩だということです。

いかに龍樹菩薩が多くの人たちから尊敬されているか分かります。

お釈迦さまは、三大聖人、二大聖人といわれてもトップですから、この地球上に現れた中で一番すぐれた人はお釈迦さまですが、
その次となると、龍樹菩薩といわれるほどで、
小釈迦
小さなお釈迦さまともいわれる大変偉大な方なのです。

では、この龍樹という人は、はじめから菩薩といわれるような方であったのかというと、そうではありません。

最初からそんなに偉大な方だった?

この龍樹という人は非常に聡明で、まだ若い頃に、図書館であらゆる蔵書を読み、当時の学問をみな理解してしまいました。

だからもう勉強することがない、知らないことは何もない、俺より物を知っている者は誰もいないだろう、とまで豪語するようになります。

そんな人だったので、多くのすぐれた友達もできました。

そこで青春真っ盛りの龍樹は、
もう学問の楽しみは終わった。あとは肉体の楽しみを求めるしかない
と、友だちと女あさりを始めるのです。

やがて並の女で満足できなくなった龍樹たちは、全国から選り抜きの美女が集まっている、王様の城へ行くことを思いつきます。

こうして龍樹たちは、夜な夜な宮中へ忍び込んで、王様の女とたわむれる毎日でした。

ところが王様が、どうも毎晩女たちの様子がおかしいと気づき、家臣に調べさせると、やがて、龍樹という者を中心に、数人の若い男たちが宮中の女をたぶらかしに来ていることが発覚します。

それを聞いた王様は、カンカンになって、
今晩その者たちが来たら、その場で首をはねよ。殺してしまえ」と警備の者たちに命じました。

警備員たちは、龍樹たちの通り道に隠れて待ち構えます。

すると今晩も、龍樹たちは女あさりに、まんまとやってきました。
賊どもを斬り捨てよ
王が号令をかけると、飛び出してきた群臣の刃に、友人たちは、ばっさばっさと目の前で殺されていきます。

ところが利口な龍樹だけは、そんな時は一番えらい人の後ろに隠れればよいと、王様の後ろへぴったりはりついて隠れ、命からがら家に帰ってくることができました。

龍樹はすっかりしょげかえりました。
ついさっきまで一緒に楽しくやっていた友達が、眼前で無残に殺された。
ああ、この世は何と無常なのか。
 おれは一人ぼっちになってしまった。
 もう彼らとは会えないのか。
 話もできないんだな、今頃彼らはどうなったのか。
 自分も死んで行くことがあるんだな

と激しい無常観に襲われたのです。

そして、今まで己の欲望のために多くの女をだまし、盗みをはたらいてきた罪悪を知らされて、「こんな罪ばかり造った俺は、死んだら一体どうなるのか」と、苦しみました。

仏教の教えを求めていくときには、無常観と、罪悪観が大切だといわれます。
まさに、この時の龍樹がそうであったのです。

そして彼は、自分が死んだらどうなるのか、
この一大事、解決する方法はないかと探し求めて、やがて仏法を求めるようになったのです。

厳しい修行に打ち込んだ龍樹は、かなりの高いさとりの位まで到達しています。

さとりといっても、低いものから高いものまで、52あり、その最高の位を仏覚といいます。

釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし
と言われますように、52段目の仏覚まで悟られたのは、地球上ではお釈迦さまだけですが、龍樹菩薩は、41段まで悟ったといわれます。
お釈迦さまの次は、この龍樹菩薩なのです。

こうして龍樹菩薩は、
八宗の祖師」「小釈迦」と言われ、七高僧の一番最初にあげられる、偉大な方になったのです。

では、この龍樹菩薩は、どんなことを教えられたのでしょうか。

龍樹菩薩の教えられたこと

次に親鸞聖人は、
悉く能く有無の見を摧破せられた
と教えられています。

能く」とは、徹底的にということです。
摧破せられた」とは、排斥せられたということです。
有無の見」とは、「有の見、無の見」のことです。
龍樹菩薩は、有の見、無の見を共に排斥せられた。
間違った教えを悉くぶち破り、真実の仏法を明らかにされた、ということです。

有の見、無の見といいますのは、お釈迦さまが仏教を説かれた当時、インドには九十五種の外道がありました。
外道」とは仏教以外のすべての宗教のことです。

それらを大きくわけると、
断見」という外道と、
常見」という外道の2つになります。

この「断見外道」を、『正信偈』では、無の見といわれ、
常見外道」を有の見といわれているのです。

死んだら無になるというのが断見外道です。
霊魂なるものがあって、肉体が無くなった後もそれは無くならず、未来永遠続いていくと教えたものを常見外道といいます。

当時の九十五種の外道は、このどちらかの教えだったのですが、これはお釈迦さまの時代だけでなく、今日でも全く同じです。

この有無の見を、お釈迦さまはどちらも間違いだと教えられました。

お経にそれを、

因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず。

と教えられています。

死んだら無になる?

因果応報とは因果の理法とか、因果の道理ともいわれるものです。

まいた種は必ずはえる。まかぬ種は絶対にはえぬ、が因果の道理です。
これは大宇宙の真理ですから、万に一つ、億に一つも例外はありません。

断見外道の言うように、もし死んで無になるとしたらどうなるでしょう。

たとえば1人の人を殺した人が、その報いを受けて1回死刑にあうとします。

しかし10人殺しても1回死刑、100人殺した人も1回の死刑です。

もし死んで無になるとしたら、何人殺そうが1回の死刑で終わりということですから、1人殺してしまったら、あとは何人殺しても結果は一緒、殺し得ということになってしまいます。
これでは納得がいきません。

1日働いて1万円の給料なら、
10日働けば10万円、100日働けば100万円もらえれば納得いきますが、
10日働いても、100日働いても1万円しかもらえないとしたら、働く人はありません。

道理理屈にあわない。
因果の道理に合わないからです。

同じことで、100人殺して、1回の死刑にあったとしたら、残りの99人分の結果を受ける世界が、死んだ後になければ大宇宙の真理である因果の道理にあわないのです。

これを因果応報なるがゆえに来世なきにあらず、といいます。
だから断見は間違いだと教えられたのです。

では、仏教では、永遠不変の魂があると教えるのでしょうか?

永遠不変の魂があるの?

次に「無我」とは我が無いということです。
ここで「」といわれているのは、インドの言葉でアートマンといいますが、「」という固定不変のものがあるという考えです。

常に変わらない私というものが、肉体のほかにあって、それが過去から現在、肉体が無くなっても続いていくという考えです。

しかし仏教では無我といわれ、我という変わらないものはない、固定不変のものはないと教えられています。
一切のものは因縁が結びついてできており、因縁が離れれば消えていくものだということです。

引き寄せて結べば柴の庵にて 解くればもとの野原なりけり

という歌があります。

」とは家のことです。
柴を引き寄せて結べばそれで家が出来ますが、結んであるヒモをほどけば、家はあとかたもなくなり、もとの野原になるということです。

家という変わらないもの、車という固定されたものがあるのではないのです。

しばらく因縁が結びついて家や車と呼ばれているだけで、やがて因縁が離れれば、あとかたもなくなります。
これが無我ということです。

死んだ後も不滅の霊魂があって続いていく、
常に変わらないものがあるという考えが有の見、常見外道ですが、
無我なるがゆえに常有にあらず」といわれているように、そんな固定不変の霊魂なるものはないのだ、と教えられているのです。

だから龍樹菩薩も、有の見、無の見ともに間違いであると、ことごとく徹底的にそれらをぶち破られ、真実の仏法を明らかにされたのだと親鸞聖人がほめたたえておられるのが、この正信偈のお言葉です。

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